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秋霜 (駆逐艦) : ミニ英和和英辞書
秋霜 (駆逐艦)[あきしも]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
秋霜 : [しゅうそう]
 【名詞】 1. autumn frost 2. fall frost
: [しも]
 【名詞】frost , Frost, hoarfrost
駆逐 : [くちく]
  1. (n,vs) extermination 2. expulsion 3. destruction 
駆逐艦 : [くちくかん]
 【名詞】 1. destroyer 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

秋霜 (駆逐艦) : ウィキペディア日本語版
秋霜 (駆逐艦)[あきしも]


秋霜(あきしも)は、日本海軍駆逐艦#達昭和18年8月(2)pp.45-46『達第二百二號 昭和十七七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、海防艦四隻、掃海艇一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 秋霜(アキシモ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 清霜(キヨシモ) 海防艦 笠戸(カサド)|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 淡路(アハヂ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 倉橋(クラハシ) 海防艦 千振(チブリ)|株式會社東京石川造船所ニ於テ建造 第三十號掃海艇|株式會社新潟鐵工所ニ於テ建造 第五十八號驅潜艇』〕。一等夕雲型の18番艦である。
== 艦歴 ==

=== 竣工以後 ===
1942年度(マル急計画)仮称第346号艦として藤永田造船所で建造、1943年(昭和18年)8月31日、18番艦を秋霜と正式に命名〔。また19番艦も清霜と命名された〔。同日附で2隻(秋霜、清霜)は夕雲型駆逐艦に類別された〔#内令昭和18年8月(5)p.15『内令第千七百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「早霜」ノ下ニ「、秋霜、清霜」ヲ加フ(以下略)』〕。
1944年(昭和19年)1月22日、日本海軍は平山敏夫少佐(吹雪型駆逐艦白雲駆逐艦長)を秋霜艤装員長に任命する。
3月11日に竣工〔#秋月型(潮2015)228頁『秋霜(あきしも)』〕。同日附で横須賀鎮守府籍と正式決定〔#内令昭和19年3月(1)p.33『内令第四百三十二號 驅逐艦 秋霜 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル(中略)昭和十九年三月十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』〕。平山少佐も秋霜初代駆逐艦長となった。
竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入(旗艦名取)。瀬戸内海に回航され訓練を受けた。
4月2日、平山少佐は夕雲型駆逐艦17番艦早霜駆逐艦長へ転任、後任の秋霜艦長には白露型駆逐艦海風沈没時駆逐艦長中尾小太郎少佐が任命された〔。
5月10日、駆逐艦4隻(秋霜、早霜、)は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に編入される〔#S1812十一水戦日誌(4)p.50『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』〕〔#S1812十一水戦日誌(4)p.60『一〇日一三一五(長官)GF(宛略)機密第一〇一二一五番電 聯合艦隊電令作第八二號 第六駆逐隊早霜秋霜ヲ機動部隊ニ編入』〕。出撃を前に、高間司令官は連合艦隊第二艦隊、小沢機動部隊、第二水雷戦隊、第十戦隊など各方面に対し「秋霜と霜月は訓練が十分ではないから、今度も指導に関し配慮してほしい」と要望している〔#S1812十一水戦日誌(4)pp.58-59『六日一三一六(司令官)11sd(宛略)機密第〇六一三一六番電 発11sd司令官宛参謀長 秋霜 霜月ハ当隊編入期間中幾多ノ支障アリテ所期ノ訓練成果ヲ得ルコトナク出撃ノ運トナリタルニ付今後ノ訓練指導ニ関シ特ニ配慮ヲ得度』〕。
5月11日、駆逐艦8隻(秋霜、早霜、時雨霜月玉波満潮野分山雲)は大和型戦艦2番艦「武蔵」と空母6隻(第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳》、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳》)を護衛して佐伯を出撃し、タウイタウイに向かった〔#S1812十戦隊日誌(6)pp.4-5『(ロ)第四駆逐隊(満潮野分山雲)(略)十一日2sf3sf武藏ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ニ向ケ同地発十二日中城湾ニ仮泊燃料補給ノ上即日同地発十六日「タウイタウイ」着…』-p.17『三〇 〇九二三(長官)1KdF(宛略)1KdF機密第三〇〇九三三番電 2sf3sf武藏進出時ノ警戒艦ハ4dg時雨玉波早霜秋霜霜月計八隻ヲ充當セシメラルゝ予定』〕〔#S1812十一水戦日誌(4)p.57『四日一五〇一(長官)1KdF(宛略)機密第〇四一五〇一番電 発第一機動艦隊長官 第一機動艦隊電令作第一四號第三項ニ依ル駆逐艦ヲ第四駆逐隊時雨玉波早霜秋霜ト定ム』〕。
16日、空母部隊はタウイタウイへ到着、5月19日附で機動部隊第一補給部隊(油槽船4隻《日栄丸、建川丸、国洋丸、清洋丸》、護衛艦《、秋霜、浜風満珠》)が編制される〔#S1905日栄丸日誌(3)p.4『五月十九日|於「タウイタウイ」第一補給部隊編制セラル 指揮官第六駆逐隊司令 兵力→給油船(日榮丸建川丸國洋丸清洋丸)護衛艦(響秋霜浜風満珠)』〕。22日~23日、第一補給部隊(満珠欠)は第三補給部隊(油槽船2隻、駆逐艦谷風)と共にタウイタウイを出発する〔#S1905日栄丸日誌(3)p.4『五月二十二日|0640|「ダバオ」向「タウイタウイ」發(満珠欠)「ダバオ」湾口迄第三補給部隊(洲ノ崎興川丸雪風)ト同行』(日栄丸戦闘詳報では雪風だが、同日朝に座礁。谷風に変更)〕〔#S1812十戦隊日誌(6)pp.5-6『(1)谷風(略)二十三日浜風響秋霜ト共ニ第一第三補給部隊ヲ護衛「タウイタウイ」出撃途中第一補給部隊ト分離第三補給部隊ノミヲ護衛二十五日「パラオ」着護衛ノ任ヲ終リ二十六日「パラオ」発二十八日「タウイタウイ」皈着爾後訓練警戒ニ任ズ』〕。
第三補給部隊分離後の5月24日、油槽船建川丸が米潜水艦ガーナ―ド (''USS Gurnard, SS-254'')の雷撃で撃沈された〔#S1905日栄丸日誌(3)p.5『五月二十四日|1510|北緯五度四六.一分、東経一二五度四二.一分ニ於テ建川丸雷撃ヲ受ケ沈没(詳細ハ参考ノ一)』〕〔#S1812十戦隊日誌(6)pp.6-7『(2)浜風谷風(略)二十三日浜風響秋霜ト共ニ第一第三補給部隊ヲ護衛「ダバオ」ニ向フ二十四日第三補給部隊ト分離同日護衛中ノ建川丸敵潜ノ雷撃(二本)ヲ受ケ沈没該敵潜ニ対シ爆雷攻撃ヲ加ヘタルモ効果不明二十五日「ダバオ」着爾泊地ノ警戒ニ任ジ三十一日牽制部隊「ダバオ」入港時響ト共ニ湾口ノ対潜掃蕩ニ任ズ』〕。5月25日、補給部隊はダバオに到着〔#S1905日栄丸日誌(3)p.5『五月二十五日|0200|「ダバオ」着 護衛艦ニ補給 爾後「ダバオ」ニテ待機、護衛艦ヲ以テ錨地外水道ヲ哨戒ス』〕。
その後、3隻(響、浜風、秋霜)は口の警戒を下令される。第一次渾作戦に従事していた第五戦隊(妙高羽黒)と扶桑型戦艦1番艦扶桑のダバオ帰港の際には〔#サイパン・レイテ海戦記39頁〕、同部隊の護衛にも従事した〔#S1905日栄丸日誌(2)p.12『六月四日 日榮丸|響 秋霜|響秋霜ハ響艦長指揮ノ許ニ直ニ出動ダバオ港外ヨリ第五戦隊扶桑ノタバオ回航ヲ警戒スベシ第五戦隊會合ノ上ハ同司令官ノ指揮ヲ受クベシ 先ノ信號中信電令第一號ヲ取消ス|手旗』〕。
6月8日、第10駆逐隊の夕雲型姉妹艦風雲が満潮型駆逐艦朝雲(第10駆逐隊僚艦)と共に第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛中、アメリカの潜水艦ヘイク (''USS Hake, SS-256'') の雷撃で沈没した〔#S1906五戦隊日誌pp.2-3『(二)七日5S10dgハ再ビ渾作戰部隊ニ編入セラレ同日ダバオ出港九日「バチャン」泊地着輸送隊(16S浦波敷波)ト合同同泊地ニテ待機ス「ダバオ」出撃時七日夜風雲敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ十日1S(長門欠)2sd(能代島風沖波)渾部隊ニ編入セラル』〕。駆逐艦浜風を通じて救援要請があり〔#S1905日栄丸日誌(2)p.16『六月八日浜風|日榮丸|キド第080416番電 發第五戦隊司令官風雲雷撃ヲ受ケタル爲湾口附近敵潜伏在面突破迄貴隊驅逐艦二隻救難竝ニ護衛トシテ派遣サレ度』〕、響、秋霜は直ちに出動〔#S1905日栄丸日誌(2)p.17『六月八日響艦長(宛略)響機密第08610番電 響秋霜救助ノ爲出動ス』〕〔#S1905日栄丸日誌(3)p.6『六月八日|0550|風雲救難ノ爲メ響秋霜出動/第五戦隊入港補給、補給後出港 秋霜第五戦隊ト共ニ出港』-p.17『六月八日響|日榮丸浜風|今ヨリ(響)救難ノ爲出動ス秋霜湾口哨戒中ニ付同艦モ派遣セラルヽヲ適當ト認ム|手旗』〕。朝雲と共に救助活動に従事したのち〔#あ号作戦日誌(2)p.21『(2)朝雲 七日迄ノ経緯風雲ト同断 八日風雲遭難ニ際シ乗員救助九日「バチヤン」着燃料補給ノ上十一日「サムバキ」ニ回航…』〕、秋霜は風雲乗員136名をダバオへ送り届けた〔#S1905日栄丸日誌(2)p.18『六月十一日秋霜駆逐艦長(宛略)秋霜機密第110800番電 本日1630タバオ着ノ予定風雲乗員136(要檐者15名)収容御手配ヲ乞フ』〕。
6月12日、駆逐艦白露の第一補給部隊編入、秋霜の機動部隊乙部隊編入が発令される〔#S1905日栄丸日誌(3)p.6『六月十二日|秋霜乙部隊ニ編入セシメラレ白露1Tニ編入セラル』〕。だが秋霜、時雨はしばらく第一補給部隊の護衛を続けることになった〔#S1905日栄丸日誌(3)p.20『六月十三日KDB(宛略)機動部隊電令作第十七號 一.第一補給部隊ハ速ニ出撃A点ニ至リ待機セヨ、行動予定ヲ報告スベシ/二.時雨秋霜ハ第一補給部隊指揮官ノ指揮ヲ承ケ特令アル迄同隊ノ護衛ニ任ゼシム』〕。6月14日3時30分、第一補給部隊(油槽船《日栄丸、国洋丸、清洋丸》、護衛艦《浜風、響、白露、時雨、秋霜》)はダバオを出撃した〔#S1905日栄丸日誌(3)p.7『六月十四日|0330|第一補給部隊A点ニ向ケ「ダバオ」出港(給油船-日榮丸國洋丸清洋丸)(護衛艦-浜風響白露時雨秋霜)』〕〔#あ号作戦日誌(2)p.24『(4)浜風 第一補給部隊(國洋丸日榮丸響秋霜浜風)トシテ「ダバオ」ニ待機中ノ所位置一日第十六戰隊入港ニ際シ湾口對潜哨戒ノ爲出動 翌二日皈投ス爾後十三日迄同方面ノ警戒待機ニ任ズ此ノ間四、五、八、九、十、十一、十二、十三日夫々出動「ダバオ」湾内ノ對潜移動哨戒ニ従事セリ、十四日第一補給部隊ヲ護衛、比島東方洋上ニ向ケ「ダバオ」出撃、十五日白露ノ清洋丸衝突沈没スルヤ之ガ救助ニ任ズ、十七日本隊編入之ガ警戒ニ任ジツゝ十九日、二十日ノ敵KdBトノ戰闘ニ参加敵艦爆二機艦攻一機計三機ヲ撃墜セリ、尚二十日敵機ノ攻撃ニ依ル飛鷹沈没ニ際シテハ之ガ救助ニ任ジタリ二十一日燃料残額ノ関係上早霜時雨満潮秋霜ト共ニ「ギマラス」ニ向ヒタル途中ニテ反転中城湾ニ向ヒ二十三日中城湾着YBニ編入セラル…』〕。
6月15日2時41分、白露は不用意に船団内を横切ったため油槽船清洋丸と衝突、秋霜と時雨の目の前で爆沈した〔#S1905日栄丸日誌(3)p.7『六月十五日|0241|北緯九度九分東経一二六度五分、白露清洋丸ト觸衝、白露沈没ス』〕〔#S1905日栄丸日誌(3)pp.41-42『(ロ)白露遭難ノ件報告』〕。白露生存者は救助に向かった浜風に収容された〔#S1905日栄丸日誌(3)p.44『五.處置 直ニ方向燈及電話ニテ警戒艦ヲ呼ベド容易ニ通ゼズ0250頃浜風ト通ジ救難ニ赴カシメ爾余ノ隊ハ行動ヲ續行セリ』〕〔。
6月16日に特設給油船日栄丸(日東汽船、10,020トン)から燃料補給を受けた後〔『日栄丸戦時日誌』pp.50〕、6月17日に機動部隊と合流し、乙部隊(第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳》、戦艦《長門》、重巡洋艦最上》、駆逐艦《満潮、時雨、五月雨、秋霜、早霜、浜風》など。指揮官城島高次少将兼第二航空戦隊司令官)に編入された〔。

6月19日-20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗した。6月20日の対空戦闘では、乙部隊より空母飛鷹が沈没し〔#サイパン・レイテ海戦記65-66頁『六月二十日 火曜日 晴』〕、秋霜は乙部隊所属駆逐艦と共に飛鷹乗組員の救助にあたる〔#S1906第27駆日誌(1)p.11『20日/1926飛鷹大爆発沈没、駆逐艦浜波秋霜早霜満潮飛鷹乗員救助ス』〕〔。飛鷹の御真影勅諭は「秋霜」に奉移された〔#高松宮日記7巻505-506頁『○「飛鷹」(二三-〇二〇〇)地点「ヘヌヤ55」ニテ20日1739敵機大群ヲ発見、天山二機ノ外全機出撃、砲撃開始。二、1750急降下爆撃機(約20キ)回避中。TBF二機ノ攻撃ヲ受ケ右舷機械室ニ魚雷一命中、運転不能、漂流中、左舷後部ヨリ潜水艦ノ雷撃三ヲ受ケ、一本魚雷格納庫左舷ニ命中、誘爆、重油引火、全艦火災トナリ、舷側諸装置全部破壊、1932沈没セリ。三、其他、爆弾命中一(大檣)、至近弾五。四、戦果 撃墜四。五、御写真及御勅諭ハ「秋霜」ニ奉移セリ機密図書ハ全部確実ニ処分ス。七、生存者艦長以下一四〇〇名、戦死認定475名(675空ヲ含ム)。八、小官ノ戦闘指導宜シキヲ得ズ、陛下ノ貴重ナル御艦ヲ喪ヒタル、誠ニ申訳ナシ。』〕。
このあと、燃料不足に陥った駆逐艦5隻(浜風、早霜、時雨、満潮、秋霜)は6月22日-23日に沖縄中城湾に到着〔。23日午後、駆逐艦5隻(浜風、早霜、秋霜、時雨、五月雨)は第七戦隊(司令官白石万隆少将)の重巡洋艦4隻(熊野鈴谷利根筑摩)を護衛して日本本土へ向かった〔#S1905熊野日誌(2)pp.33-34『23日1221七戦隊司令官/第七戦隊信令第33號|一.當部隊補給終了次第(1430頃)出港内海西部ニ回航|二.本回航中ノ軍隊区分(イ)主隊7S(本職直率) (ロ)警戒隊 駆逐艦(浜風駆逐艦長指揮) (ハ)警戒隊区分(指揮官)兵力ノ順 一番隊:(浜風駆逐艦長)5浜風6早霜7秋霜、二番隊:(時雨〃)8時雨9五月雨(以下略)』〕〔#S1906第27駆日誌(1)p.12『23日/1440出港(略)|1537 7S直衛ニ就ク(浜風秋霜早霜時雨五月雨直衛)』〕。6月24日に柱島泊地に帰投した〔木俣『日本戦艦戦史』402ページ〕。6月29日、夕雲型2隻(早霜、秋霜)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛して呉を出発、シンガポールへ向かった〔#S1906五戦隊日誌p.4『(四)二十六日呉ニ回航急速戰備ヲ完成スルト共ニ陸海軍部隊物件ヲ搭載5S早霜秋霜ヲ率ヰ二十九日呉出港佐賀ノ關假泊翌三十日假泊地發「マニラ」「ギーマラス」経由昭南ニ向ケ作戰輸送ノ任ニ就ク』〕〔#サイパン・レイテ海戦記75頁〕。
8月15日、秋霜は夕雲型姉妹艦2隻(早霜清霜)とともに、新編制の第二駆逐隊に所属する〔#秘海軍公報昭和19年8月(4)p.3『内令第九五九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年八月十五日 海軍大臣|第一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第二驅逐隊|早霜、秋霜、清霜| 』〕。駆逐隊司令白石長義大佐(陽炎型駆逐艦11番艦浦風初代艦長等)。第二水雷戦隊早川幹夫少将・海兵44期)に編入された。
夕雲型3隻の第二駆逐隊は、太平洋戦争における二代目の第二駆逐隊である。太平洋戦争開戦時の第二駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(村雨夕立春雨五月雨)で編制されて第四水雷戦隊に所属したが、夕立を第三次ソロモン海戦で、村雨をビラ・スタンモーア夜戦で喪失し、春雨の長期修理により1943年(昭和18年)7月1日附で解隊されていた〔#内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項ヲ削ル』〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「秋霜 (駆逐艦)」の詳細全文を読む




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